父は、明るくて陽気な人だった。
家ではいつも冗談を言って、自分の話で自分が先に笑っているような人だった。怒った顔より、笑っている顔のほうを、ずっと多く覚えている。父のおかげで、いつも笑いが絶えない家庭だった。
そんな父が、一度だけ、真剣な顔で言ったことがある。
兄と私が、それぞれ社会人になったときだった。いつものふざけた調子はどこにもなくて、まっすぐにこちらを見て、こう言った。
「靴はきれいにしておきなさい。足元はきちんとしておきなさい」
ふだん笑ってばかりの人が、その時だけ真剣だったから、その言葉は妙に深く残った。
毎年の、誕生日
それからというもの、父は毎年、私と兄の誕生日になると、決まってこう言うようになった。
「靴を新調しなさい」
そう言って、お金を握らせてくれた。「ちゃんといいやつ買えよ」と、軽い口調で笑いながら。
最初の真剣な一言を、毎年そうやって、明るく繰り返してくれていたのだと思う。説教にならないように、押しつけにならないように。父なりの、不器用で陽気なやり方だった。
新しい靴の箱を開けるたび、私はあの日の真剣な顔を、少しだけ思い出していた。
父の足
父自身の足は、いつ見ても、きれいだった。
爪はいつも短く、きちんと整えられていた。かかとも荒れていなかった。人に言うだけでなく、自分でも、ずっとそうしていた人だった。よく笑う朗らかな人だったが、足元のことだけは、生涯ぶれなかった。
言葉より、その足のほうが、よほど雄弁だったのかもしれない。「足元をきちんと」と口で言う人はいても、自分の足を最後まできれいにしていられる人は、案外少ない。父は、それを黙ってやり続けていた。
言葉の意味が、わかった日
足にふれる仕事をするようになって、父の言葉の意味が、ようやくわかった。
足元には、その人の生き方が出る。歩いてきた道も、立ち止まった時間も、いま自分をどう保っているかも、足は静かに語っている。父が言っていたのは、見栄えの話ではなかった。自分の暮らしを、いちばん下のところまで、おろそかにするな、ということだったのだと思う。
軽い口調で握らせてくれたあのお金は、靴代であると同時に、その一言を忘れないでほしいという、父からのささやかな贈り物だった。
足元から
新しい靴を買うとき、今でも、あの真剣な顔と、照れ笑いの両方を思い出す。
きれいな靴を履くこと以上に、その靴の中の足が、ちゃんとしていること。陽気に笑いながらも、足元だけはきちんとしていた父のように。
だから今日も、目の前の人の足元を、丁寧に整える。それが、私なりの「靴を新調しなさい」なのだと思う。
足元から、その人の暮らしが、ひとしずくずつ、続いていく。

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