以前、「痛みを取る、その次に」という手記を書いた。
長く看護をしてきたなかで、自分のなかに自然とできた順番のことを書いた。第一に、痛みを取ること。第二に、不快感を取り除くこと。第三に、清潔にすること。そして第四に、きれいに整えること。
今日は、その第三にある、「清潔にする」ということについて、書いておきたい。それは、私のなかで、看護の本質と、いちばん深くつながっていることだから。
清潔にすることは、自然治癒力を支えること
清潔について考えるとき、私はいつも、ナイチンゲールのことを思い出す。近代看護の礎を築いた人だ。
彼女は、看護というものを、こう捉えていたとされる。看護がすべきことは、病気を治すことそのものではなく、その人のなかにある自然治癒力が、最大限に働けるように、環境を整えることだ、と。新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静けさ。なかでも清潔は、その中心にあった。クリミア戦争の野戦病院で、彼女は、傷そのものよりも、不衛生な環境で命を落としていく兵士たちを見て、清潔を、徹底して改善していったとされる。
この考えを知ってから、私のなかで、「清潔にする」という行為の意味が、変わった。
清潔にすることは、ただ汚れを取ることではない。その人の体が、自分の力で持ち直していけるように、土台をならすことだ。不潔なままでは、せっかく痛みや不快をやわらげても、そこからまた、感染やトラブルが起きてしまう。だから私は、形を整えるよりも先に、まず清潔にすることを置いている。清潔は、いちばん下で全体を支える、土台なのだ。清潔にすることは、自然治癒力への、いちばん静かな手助けなのだと思うようになった。
病棟で、終末期の方の髪を洗った
病棟で働いていた頃の、ある経験が、ずっと心に残っている。
終末期の患者さんだった。病院では、終末期の方には、呼吸を楽にするケアや、床ずれを防ぐケアが、どうしても優先される。それは、命に関わる、大切なケアだ。
けれど、私は、受け持ちの患者さんに、もうひとつ、自分なりのケアを取り入れてみることにした。髪を洗い、体を清め、清潔にする。それだけのことだ。
すると、その方の表情が、ふっと、やわらいだ。
言葉は、もう、あまり交わせなかった。それでも、さっぱりと清潔になったあとの、あの穏やかな表情を見て、私は確信した。清潔にしてさしあげることは、終末期の人にとっても、ちゃんと意味があるのだ、と。
訪問の現場で、髪を洗った
訪問看護をしていた頃にも、忘れられない一日がある。
長く寝たきりで、終末期を迎えておられる方だった。意識は、もう朦朧としていた。長いあいだ、命をつなぐことが、何より優先されてきた。それは、当然のことだ。
そんなとき、ご家族から、ご希望があった。髪を、洗ってあげてほしい、と。
私は、ご家族とともに、その方の髪を、ていねいに洗わせていただいた。寝たきりのまま、ベッドの上で。長く洗えていなかった髪を、お湯で流し、清めていく。
すると、ここでも、表情が、ふっと、やわらいだ。意識が朦朧としているはずなのに、たしかに、気持ちよさそうに、穏やかになられた。その変化を、ご家族と一緒に、確かめることができた。
ご家族は、その表情を見られたことを、心から喜んでくださった。「こんな顔を、見られるなんて」と。命をつなぐことに精いっぱいだった日々のなかで、最期の時間に、穏やかな表情を見られたこと。それが、ご家族にとっても、大きな救いになったのだと思う。
最期に、気持ちよく
人が亡くなったあと、その身を清める。そういう行いは、昔から、大切にされてきた。
けれど、私が思うのは、その前のことだ。亡くなってからではなく、生前に、終末期に、最期のときに、その人自身が、「気持ちいい」と、少しでも感じながら、旅立てること。
清潔にすることは、そのためにできる、いちばんやさしい手助けなのだと思う。たとえ言葉が交わせなくなっても、意識が遠のいていても、人は、清潔になることの心地よさを、ちゃんと感じている。あの、ふっとやわらぐ表情が、それを教えてくれた。
看護は、つながっている
痛みを取り、不快をやわらげ、清潔にして、きれいに整える。私の看護観の順番の、その三番目にある「清潔」で、私は、ナイチンゲールが見つめた看護の本質と、つながっていた。
そして今、私はフットケアの仕事をしている。足を洗い、爪のあいだの汚れを取り、清潔にする。それは、病棟で、訪問の現場で、終末期の方を清めたあの手と、同じ手だ。その人の自然治癒力を支え、その人がその人らしくいられるように清潔を保つ――いちばん小さな、いちばん足元での、看護のかたち。
看護は、つながっている。時代を超えて、場所を超えて、最期のときにまで。
足元から、その人が、その人らしく、やすらかでいられることが、ひとしずくずつ、保たれていきますように。

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