「看護観」という言葉がある。
看護師なら一度は聞いたことのある言葉だ。新人の頃には研修のテーマになり、年を重ねると面接や勉強会で問われる。あなたの看護観は、と。
最初の頃は、その言葉を持て余していた。立派なことを書かないといけない気がして、無理に言葉を探した。けれど、書き上げた紙を眺めても、どこか自分のものではない気がした。看護観というのは、本のなかにあるのではなく、現場で手を動かしてきた時間のなかに、少しずつ積もっていくものなのだと、今は思う。
「回復志向」と書かれていた
数年前、ストレングスファインダーという診断を受けたことがある。自分の強みの傾向を、上から順に並べてくれる仕組みだ。
私の1位は、回復志向だった。
説明にはこう書かれていた。問題のある状態を見ると放っておけず、本来あるべき姿に戻したくなる人。壊れたものを直す、乱れたものを整える、その過程に喜びを感じる人。
読んだとき、ふっと納得した。これは、ずっと前から自分にあったものだ。子どもの頃、ものが定位置にないと落ち着かなかったこと。看護のなかで、痛みや汚れをそのままにしておけなかったこと。あれは性分だったのだと、ようやく名前が付いた気がした。
看護観と、回復志向
「回復志向」と「看護観」は、たぶん、自分のなかでつながっている。
回復志向は、「本来あるべき状態に戻したい」という性分のことだ。看護は、まさにそれを仕事にしている。痛む人の痛みを取り、不快な状態をやわらげ、乱れていた身体を整える。回復志向の人にとって、看護はたぶん、もっとも自然に手を動かせる場所のひとつなのだと思う。
だから、私が看護師を天職だと感じるのは、信念や使命感の問題ではなく、もっと素朴に、性に合っているからなのだろう。手を動かして、状態を良い方向に戻していく。その手応えが、自分にとっていちばん落ち着く時間だった。
私が大切にしてきた順番
長く看護をしてきたなかで、自分のなかに、自然と順番ができていった。
第一に、痛みを取ること。
第二に、不快感を取り除くこと。
第三に、清潔にすること。
第四に、きれいに整えること。
これは、誰かに教わった順番ではない。現場で手を動かしているうちに、自分のなかに残った優先順位だった。
痛みは、その人のすべてを覆ってしまう。痛いままでは、話を聞くことも、ケアを受けることも難しい。だから、まず痛みを取る。
そのうえで、しめつけや、ベタつきや、何となく気持ち悪い、といった不快感をやわらげる。
そして、汚れを落として、清潔にする。
最後に、清潔になった状態を、本来の形に、きれいに整える。
派手な順番ではない。けれど、この四つを順に積み重ねると、ご本人の表情がふっと変わる。それを何度も見てきた。
フットケアという仕事に、そのまま続いている
この順番は、いま続けているフットケアの仕事のなかにも、そのまま生きている。
痛む爪を、痛くないかたちに整える。
靴の中の不快感を、減らす。
角質や乾燥を、ていねいに落とす。
そのうえで、清潔な状態に保つ。
スケールは小さくなったが、やっていることは変わらない。本来あるべき足の状態に、少しずつ戻していく。回復志向の性分と、これまでの看護観が、足元というかたちでひとつにまとまっている、という感覚がある。
看護観は、書くものより、積もるもの
看護観は、立派な言葉で語るものというより、毎日の手の動きのなかに積もっていくものなのだと、今は思う。
私の場合は、痛みを取り、不快感をやわらげ、清潔にして、きれいに整える。その順番が、自分の看護観の輪郭になった。これからも、たぶん大きくは変わらない。
足元から、その人の本来の姿が、ひとしずくずつ、戻っていく。

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