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急がない手が、伝えるもの

焦っている手は、思っている以上に、相手に伝わる。

長く看護をしてきて、いま確信していることのひとつだ。手の速さや力の入り方には、その人の心のなかが、そのまま出る。急いでいる手は、どれだけ言葉でやさしくしても、急いでいることが相手に伝わってしまう。

そして、伝わった焦りは、相手の心と体に、確かな影響を及ぼす。

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こなし仕事をしていた、病棟時代

正直に書くと、病棟時代の私の手は、よく焦っていた。

受け持ちの患者さんが何人もいて、点滴、清拭、記録、ナースコール、急変。やることは次々に押し寄せてくる。一つの処置を、終わらせること自体が目的になっていく。目の前の人を看ているようでいて、頭のなかでは次の段取りを組んでいる。今思えば、あれは「こなし仕事」だった。

手は動いている。処置は、間違えていない。それでも、どこか急いでいた。

そういう日、患者さんはたいてい、口数が少なかった。「大丈夫ですか」と聞いても、「うん、大丈夫」としか返ってこない。今ならわかる。急いでいる人には、人は本音を預けない。こちらが受け取る準備をしていないことを、相手は察している。

焦った手が、相手に及ぼすもの

焦っている手は、相手の心と体の両方に、影響を及ぼす。

心の面では、相手が緊張する。 急がれていると感じると、人は「早くしなければ」「迷惑をかけてはいけない」と身構える。痛いと言えなくなる。聞きたいことを飲み込む。本当はつらいのに、「大丈夫」と言ってしまう。

体の面では、相手がこわばる。 緊張は、そのまま体に出る。筋肉に力が入り、関節が硬くなり、皮膚も身構える。こわばった足は、ケアがしにくい。爪も切りにくいし、痛みも出やすい。つまり、焦った手は、結果として処置そのものを難しくしてしまう。

急ぐことで、かえって時間がかかる。これは、現場に出てから、何度も実感したことだった。

認知症の方には、いっそう強く伝わる

焦りが伝わりやすいのは、誰に対してもそうだが、認知症の方には、いっそう強く伝わる。

認知症が進むと、こちらの言葉や段取りは、うまく届かなくなることがある。けれど、不思議なことに、こちらの「気配」や「感情」は、最後まで、とてもよく伝わる。言葉でごまかせない分、むしろ敏感になる、と感じることさえある。

だから、こちらが焦っていると、認知症の方はすぐにそれを察して、不安になる。表情がこわばり、手を振り払ったり、声を荒げたりされることもある。それを「症状」と片づけてしまいがちだが、よく見ると、こちらの焦りが引き金になっていることが、少なくない。

逆に、こちらがゆっくり、落ち着いて手を動かすと、さっきまで身構えていた方が、すっと力を抜いてくださることがある。言葉が通じなくても、急がない手は、ちゃんと伝わる。「この人は、自分を急かさない」という安心は、認知症の方にも、まっすぐ届くのだ。

相手のペースで、手を動かすようになって

訪問の仕事を始めて、いちばん変わったのは、手の速さだった。

その人の家で、その人の時間に合わせる。お茶をいただき、世間話をして、それからケアに入る。最初は「のんびりしすぎではないか」と落ち着かなかった。けれど、相手のペースに手を合わせるようになって、見えてきたことがあった。

ゆっくり触れていると、こわばっていた足が、だんだんゆるんでくる。口数の少なかった方が、ぽつりと話し始める。「実はね」と、本当のことを話してくれる。同じ人に、同じ処置をしても、手の速さが違うだけで、返ってくるものがまるで違う。

急がない手は、相手の緊張を解く。緊張が解けた体は、ケアを受け入れてくれる。受け入れてくれた体は、回復に向かいやすい。焦らないことが、遠回りのようでいて、いちばんの近道だった。

手は、もうひとつの言葉

ケアをしていて思うのは、手は、もうひとつの言葉だということだ。

口でどれだけ「ゆっくりで大丈夫ですよ」と言っても、手が急いでいれば、相手は手のほうを信じる。逆に、何も言わなくても、急がない手は「あなたの時間を大切にしています」と伝えてくれる。言葉より、手のほうが正直で、手のほうがよく伝わる。

病棟時代の私に、いま伝えられることがあるとしたら、これだと思う。処置を早く終わらせることは、仕事をしたことにはならない。相手の心と体が、ほどけて、受け取れる状態になって、はじめてケアは届く。そのために必要なのは、技術よりも先に、急がない手だった。

おわりに

焦りは、隠せない。手から、相手に伝わってしまう。だから私は、自分の手から焦りを抜くことを、ずっと練習してきた。

急がない手は、相手を緊張させない。こわばらせない。本音を預けてもらえる。そして、ケアが、ちゃんと届く。それは、目の前のひとりに向き合う時間を取り戻した、訪問の現場で教わったことだった。

今日も、目の前の人の足に触れる前に、一度、自分の手から急ぎを抜く。それが、私のケアの、いちばん最初の手順になっている。

足元から、その人の時間が、ひとしずくずつ、ほどけていく。

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