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裸足で歩いた異国の地

遠い昔、私はオーストラリアに住んでいたことがある。

もう何年も前のことだ。日々の細かいことは、ずいぶん忘れてしまった。それでも、いくつかの風景は、今も鮮明に残っている。そのひとつが、裸足で外を歩く人を見かけた光景だ。

目次

裸足で歩く人たち

最初に見たときは、正直、驚いた。

みんながみんな裸足というわけではない。多くの人は、ふつうに靴を履いている。けれど、そのなかに、スーパーマーケットでも、カフェでも、道でも、靴を履かずに裸足で歩いている人がいるのだ。子どもだけではない。大人も、ごく自然に、裸足で過ごしている。

もっと驚いたのは、周りの人たちが、それをまったく気にしていないことだった。じろじろ見るでもなく、注意するでもなく、ただ当たり前の光景として受け入れている。「外を裸足で歩く」という選択が、ひとつの文化として、ちゃんと根づいているのだと感じた。

日本だったら、きっと視線を集めてしまう。それが、ここでは何の違和感もなく、風景にとけこんでいる。

でも、見ているうちに、なんだか「気持ち良さそうだな」と思った。土や芝生やアスファルトを、足の裏で直接感じながら歩く。裸足を選ぶ人にとって、それは特別なことでも、横着なことでもなく、ただ、自然なことなのだろう。気候や風土のなかで育った、ひとつの文化なのだと、しばらく暮らすうちにわかってきた。

私も真似してみたかった。けれど、なかなか勇気が出ない。そんな日がしばらく続いたあと、ある日、思い切って、裸足で一日過ごしてみることにした。

裸足で過ごした、一日

靴を脱いで、裸足で歩いてみる。最初は、やはりおそるおそるだった。

けれど、数歩あるいて、驚いた。

足の裏が、いろいろなことを感じている。芝生のやわらかさ。土のひんやりした感触。日なたの暖かさと、日かげの冷たさ。小石のごつごつ。靴を履いているときには、まったく気づかなかった情報が、足の裏から、いっせいに伝わってくる。

自分の足の裏が、こんなにたくさんのことを感じられる場所だったのか、と思った。ふだん、靴と靴下に包んで、ただ移動の道具のように扱っていた足。その足で地面を踏みしめるたびに、自分が今ここに生きている、という感覚が、じんわりと立ちのぼってくる。それを、裸足になって初めて知った。

足は、感じる場所だった

その感覚は、長く忘れていた。

日本に戻り、また靴を履く生活に戻り、仕事に追われるうちに、裸足の記憶は、遠い思い出になっていった。それでも、どこかにずっと残っていたのだと思う。足は、ただ体を支える土台ではない。感じる場所なのだ──そういう感覚が。あの裸足の日に教わったのは、たぶん、そういうことだった。

今、私はフットケアの仕事をしている。人の足に触れ、爪を整え、皮膚を観察し、お湯に浸からせる。その手の奥に、あのオーストラリアの芝生の感触が、ふと蘇ることがある。

足を、ただの「体の末端」として扱わない。その人が、足の裏で世界を感じてきた歴史ごと、大切に触れる。そういう姿勢の遠い原点は、もしかしたら、あの裸足で歩いた日々にあるのかもしれない。

おわりに

人は、足の裏で、たくさんのことを感じている。けれど、ふだんはそれを忘れている。靴と靴下に包んで、当たり前のように移動の道具にしている。

遠い昔、異国の地で裸足になったとき、私はそのことを思い出した。足は、感じる場所なのだ、と。

その気づきは、ずいぶん遠回りをして、今の仕事につながっている。目の前の人の足に触れるたび、私は、その足が歩いてきた道のことを、少しだけ想像する。

足元から、その人の感じてきた世界が、ひとしずくずつ、伝わってくる。

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