仕事と子育てに、追われていた時期があった。
朝、子どもを送り出して職場に向かい、夜は遅くに帰って、洗濯機の音を聞きながら明日の支度をする。眠りについたと思ったら、もう朝になっている。やってもやっても終わらない毎日のなかで、自分のことを考える時間は、いつの間にかどこかにいっていた。
そんな頃、父が一通の手紙と、金一封を手渡してくれた。
手紙にあった言葉
封を開けると、いつものくだけた口調とは少し違う、ていねいな字が並んでいた。要点だけを抜き出すと、こういう内容だった。
「このお金は、貯金せず、少しの贅沢に使い切りなさい。
例えば、100円のりんごよりも、200円のりんごを買いなさい。
1輪でもいいから、毎日、花を飾ってみなさい。
それが、心のゆとりとなるから」
父らしい、と思った。
明るくて陽気な人だったけれど、こういう言葉を渡すときだけは、まっすぐだった。社会人になったとき、靴の話をしてくれたあの日と同じだった。
「贅沢に使い切りなさい」の意味
最初に読んだとき、正直に言えば、少し戸惑った。
働いて、子育てをして、毎月の家計を考えて生きている人間にとって、「贅沢に使い切りなさい」という言葉は、なかなか受け取りにくい。もったいない、と思う気持ちのほうが先に出る。
けれど、父は「贅沢」と言いながら、たぶん、贅沢の話をしていなかった。
100円のりんごでも、お腹は満たされる。それでも、200円のりんごを選んでみることで、自分の毎日に、ほんの少しだけ余白をつくる。1輪の花を飾ることで、家のなかに、ささやかな静けさを置く。父が言っていたのは、そういう「余白」のことだったのだと思う。
追われている自分が、追われたままで枯れてしまわないように、と。
心のゆとりは、生まれるものではなく、置くもの
長く、私はゆとりというものを、誤解していた気がする。
ゆとりは、忙しさが落ち着いたら自然に生まれてくるもの、だと思っていた。けれど現実には、忙しさは終わらない。子どもが大きくなれば次の用事が出てくるし、仕事も区切りなく続いていく。待っていても、ゆとりは向こうから来てくれない。
父の言葉が示していたのは、もっと能動的なことだった。
ゆとりは、自分で「置く」ものだ。
200円のりんごを選ぶ、という小さな決断のなかに。
花瓶に一輪を挿す、という数分の手間のなかに。
追われている毎日のすきまに、自分で意識して場所をつくる。そうしないと、ゆとりはいつまでも、自分の生活には入ってこない。
それを、お金とともに手渡してくれた父のやり方は、今振り返っても、不器用で、優しいやり方だった。
ケアの仕事に、続いている
この言葉は、今の仕事のなかにも、形を変えて続いている。
訪問の現場で、足を温めている数分。ケアそのものは数分でできることでも、その時間を「待つ」ことに使えるかどうかで、伝わるものが変わる。お湯につかっている方の表情がほどけるのを、ただ待つ。それは、200円のりんごを選ぶことと、たぶん同じ種類の行いだ。
効率だけを考えたら、削れる時間かもしれない。けれど、そこを削ってしまうと、ケアから「ゆとり」が消える。ご本人にも、自分にも。
父は看護のことを語ったわけではない。けれど、あの言葉は、私の仕事の根っこに、静かに残っている。
おわりに
仕事と子育てに追われていた当時の私に、父があの手紙を渡してくれていなかったら、今の自分がここまで穏やかに人と向き合えていたかどうか、わからない。
100円のりんごを買い続けることが悪いのではない。ただ、たまには、200円のりんごを選んでみる。一輪の花を、飾ってみる。そういう小さな余白を、自分の暮らしのなかに、自分で置いていく。
それが、心のゆとりというものだと、今ようやく、わかってきた気がする。
足元から、毎日の余白が、ひとしずくずつ、満ちていく。

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