毎年、誕生日になると必ず母から電話が来た。
離れて暮らしていても、何年も、何十年も。「おめでとう」のあとに少し近況を話して、最後に「無理しないようにね」と言うのが決まりだった。
私にとって、その電話は誕生日そのものだった。
その電話が、ある年、来なかった。
最初は「忙しいのかな」と思った。こちらから電話をかけると、母は出てくれた。声は明るくて、いつもの母だった。けれど、私の誕生日のことには、最後まで触れなかった。
別れぎわに「今日、わたし誕生日だったのよ」と言うと、母は一瞬黙って、それから「あ、そうだったね、ごめんごめん」と笑った。
その「ごめんごめん」の軽さに、私は気づいてしまった。
気丈で、明るい人だった
弱音を吐かない人だった。
父が亡くなった時も、最後まで気丈に振る舞いきった人だった。
明るくて、人付き合いが上手で、私の自慢の母だった。
そんな母が、私の誕生日を、本当に「忘れていた」。
看護師として、認知症の方をたくさん見てきた。症状の知識はある。けれど、自分の母のこととなると、知識は何の盾にもならなかった。
「気のせいかもしれない」と思いたかった。
それでも、あの日から振り返ると、いくつものサインがあったことに気づいた。
「まだ大丈夫」と「もう難しい」のあいだで
それから、いろいろなことがあった。
診断、本人の戸惑い、家族の戸惑い、喧嘩。「まだ大丈夫」と「もう難しい」のあいだで、何度も揺れた。
正解はなかった。あったのは、その都度の選択だけだった。
今、母は施設で穏やかに過ごしている。
私のことを、もう「娘」としてははっきり覚えていないかもしれない。それでも、会いに行くと笑ってくれる。
その笑顔は、私が知っている母の笑顔と、確かに同じものだった。
仕事のなかで、母を思い出す
私は今、訪問フットケアの仕事をしている。
ご高齢の方の足に触れて、お話を聞きながら、ケアをする。そのなかには、認知症の方もいる。ご家族と話す機会も多い。
「うちの母も同じです」とは、軽々しくは言わない。一人ひとり、抱えているものは違うから。
それでも、ご家族の表情のなかに、自分が通ってきた揺らぎを見つけることがある。「まだ大丈夫」と「もう難しい」のあいだで揺れている、あの感じ。
そういうとき、私は何も言わずに、ただ目の前のご本人の足を、丁寧にケアする。
足は、その人の歴史を語る。歩いてきた距離も、立ち止まった時間も、迷った道も、全部そこにある。記憶が薄れても、足は覚えている。
失われたのではなく、形が変わっただけ
誕生日を忘れられたあの日、私は何かを失ったと思った。
でも、本当はそうじゃなかった。
失われたのではなく、形が変わっただけだった。
母のなかの「娘」という記憶は薄くなったかもしれない。それでも、母から私に注がれてきたものは、形を変えて、私のなかに残っている。
私は今、その手で、誰かの足に触れている。
エピローグ ── 誕生日が来ると思い出す
毎年、誕生日が来ると、思い出す。
電話が鳴らなかった、あの年のことを。「ごめんごめん」と笑った、あの軽さを。
あのときは、何かを失ったと思った。でも今は、そうは思わない。誕生日は、母が私をこの世に迎えてくれた日だ。電話は、もう来ない。それでも、その日が巡ってくるたびに、私は母を思い出す。思い出すことが、私なりの「おめでとう」の返し方なのかもしれない。
水のように、流れて、巡って、また誰かに届いていく。
失われたのではなく、形が変わっただけ。それでいいのだと、最近やっと思えるようになった。
足元から、こころの時間が、ひとしずくずつ、すこしずつ。

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