私が訪問看護師をしていた頃、ケアマネジャーさんから受けるご依頼のなかに、「爪切りをしてほしい」というものが、意外なほど多くありました。
たかが爪切り、と思われるかもしれません。けれど、その「たかが爪切り」が、ご家族だけではどうにもならず、深刻な状況になっていることが、少なくないのです。今回は、そんな依頼のひとつ、認知症のご主人と、奥さまのお話です。
「爪切りをしてほしい」という依頼
そのご家庭も、ケアマネジャーさんからのご紹介でした。
ご主人は、認知症が進み、以前とは人が変わってしまわれていました。穏やかだった方が、今は、ふいに声を荒げ、手が出ることもある。その変化を、いちばんそばで受けとめてきたのが、80代の奥さまでした。
困っておられたのは、ご主人の足の爪でした。長く整えられないまま、爪は伸び、分厚く硬くなり(肥厚爪)、一部は指に食い込んでいました。伸びきった爪が邪魔をして、靴はもちろん、靴下すら、まともに履けない状態。
けれど、奥さまが切ろうとすると、ご主人は、激しく拒まれる。足を見せてもらうことすら、難しい。
「市販のものを、いろいろ試したんです。やすりも、いろんな爪切りも……。でも、もう、限界でした」
そう、奥さまはおっしゃいました。
ご本人を、責めることはできない
ご主人が、ケアを強く拒まれるのには、理由があります。
認知症によって、ご本人は、今、目の前で起きていることが、うまく理解できません。見知らぬ人間が、自分の足に触れようとする。刃物のようなものを近づけてくる。それは、ご本人にとって、ただただ「怖いこと」なのです。抵抗するのは、自分を守ろうとする、自然な反応でもあります。
人格が変わってしまったように見えても、その奥には、不安や恐怖を抱えた、ひとりの人がいる。だから、その拒絶を、責めることはできません。そして、それを毎日受けとめてこられた奥さまのことも、責められる人など、どこにもいないのです。
奥さまも、限界だった
毎日の介護だけでも、心身は、すり減っていきます。
声を荒げられ、手を出され、それでも、見捨てることはできない。自分の食事や睡眠さえ、後回しになる。ご自身の足元を見ると、奥さまの爪も、長く手入れができていませんでした。自分のことをかまう余裕など、とうになかったのだと、すぐにわかりました。
それでも、奥さまは、ご主人の足を、なんとかしてあげたかった。痛そうな足を、見て見ぬふりはできなかった。市販の道具を買い集め、何度も挑んでは、跳ね返されてきた。その日々を思うと、「もう、限界でした」という言葉の重さが、胸に迫りました。
「たかが爪切り」が、できなくなるとき
足の爪を切る。ふだんは、なんでもないことです。けれど、いくつもの事情が重なると、これが、家庭ではどうにもならない壁になります。
- 認知症で、ケアを受け入れられない
- 爪が肥厚して硬くなり、家庭用の爪切りでは切れない
- 食い込んだ爪を無理に切ると、出血や感染の危険がある
- 介護する側も、心身が限界で、向き合う余力がない
放っておけば、食い込んだ爪から、ばい菌が入り、もっと深刻なことになりかねません。けれど、ご家族だけでは、もう、どうにもできない。「たかが爪切り」が、「されど爪切り」になる瞬間です。
私たちのような専門家は、こうした足を、安全に整える技術と道具を持っています。時間をかけ、ご本人の不安をやわらげながら、すこしずつ。そうやって、危険な状態だった爪を、整えさせていただきました。
ケアのあとに
爪を整え終えたあと、しばらくして、ご主人は、ふっと穏やかになられました。
長いあいだ、足の爪が、指に食い込んで痛かったはずです。その痛みから、解放されたのかもしれません。あれほど張りつめておられたのが、嘘のように、表情がやわらいでいきました。
その様子を見て、奥さまは、涙を流されました。安堵と、これまでの疲れと、いろいろなものが、混じった涙だったのだと思います。
爪切りは、一度きりでは終わらない
ここで、大切なことがあります。
足の爪のケアは、「一度切ったら、それで終わり」ではありません。爪は、また伸びてきます。肥厚した爪や、巻いた爪は、放っておけば、また同じ状態に戻ってしまいます。
本当に必要なのは、伸びきって、痛みや危険が出てしまう前に、快適な状態を保ちながら、継続してケアを続けていくことです。定期的に整えていれば、あんなに大変な状態になる前に、穏やかにケアができます。ご本人の負担も、ご家族の負担も、ずっと軽くなります。
一度の爪切りで、すべてが解決するわけではない。だからこそ、専門家が、継続して関わる意味があるのです。
家族介護は、孤独です
最後に、お伝えしたいことがあります。
家族の介護は、とても孤独です。そして、世の中には、「家族のことは、家族で見るべき」「人に頼るのは、かっこ悪い」という空気が、まだどこかにあります。だから、多くのご家族が、限界まで、ひとりで抱え込んでしまいます。
でも、本当は、逆です。専門家に頼ることは、かっこ悪いことでも、負けでもありません。むしろ、ご本人にとっても、ご家族にとっても、いちばんよい選択であることが、たくさんあります。
たかが爪切り、されど爪切り。その小さな一歩を、誰かに頼ってみる。それだけで、ご本人の痛みが取れ、ご家族の肩の荷がおりることが、確かにあります。
足元から、ご本人と、支えるご家族の、両方の毎日が、ひとしずくずつ、やわらいでいきますように。
※認知症の方のケアで、強い拒絶や、安全面の不安がある場合は、無理をせず、ケアマネジャー・訪問看護・主治医・地域包括支援センターなどにご相談ください。
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